07 桶屋が儲かる防災学

2022年 10月01日

立ち遅れという危険

 総務省消防庁が発表する消防白書によると、年間で約1,200もの命が火災によって失われています。その死因の約半数が逃げ遅れによるものです。さらに、4割が不明、もしくは調査中となっていますから、実際にはもっと多くの方が逃げ遅れによってお亡くなりになっているかもしれません。さて、この逃げ遅れとは、なぜ起きるのでしょうか。眠っていて気づかない、あるいは、体に不自由があって思うように動けない、といった理由もあるのかもしれませんが、なかには立ちすくんでしまった、あるいは自分は大丈夫だろう、周りも慌てていないのだから自分だけ逃げだすのは格好が悪い、そんな理由もなかにはあるのではないでしょうか。

 2003年に韓国で発生した大邱(テグ)地下鉄放火事件の映像は、逃げ遅れの様子を如実に捉えたものとして話題になりました。ガソリンをまいた上での放火で、大火災が発生し、火元でない車内にも煙が立ち込め始めていますが、乗客は口元をおさえたりするものの、誰一人逃げようとしません。この事件は、結果的に192名もの死者を出す結果となってしまいました。2001年の米国同時多発テロの場面でも、ワールドトレードセンターに航空機が突入した直後、建物内には避難もせずにいつも通りに行動していた人が少なからずいたようです。東日本大震災でも、多くの方が逃げ遅れたことにより津波の犠牲となりました。
 あなたはどうでしょうか。買い物に訪れたショッピングモールで火災警報が鳴り響いたら、どのように行動するでしょう。どのような行動をとるべきでしょう、また、どうすべきかをイメージできたとして、実際に動くことができるでしょうか。
 第1話でも触れたように、防災の目的とは、災害に打ち勝ち、復旧し、平時の暮らしを取り戻すことです。経済的な負担は致し方ありませんが、建物は建て直すことができますし、お気に入りのマグカップが割れたとしても、ひょっとしたら渋い湯呑を見つけて新たなお気に入りになるかもしれません。しかし、失われた命だけはけして戻ってくることがありません。故に、防災における戦術的な目標は生き延びること、命をつなぐことであろうと、筆者は信じているところであります。発災の瞬間に思わぬ落下物に当たってしまうといったアクシデントは何とも防ぎようのないところですが、発災の瞬間を生き延びることができたのであれば、それ以降は全力で生き延びる努力をすべきであろうと考えます。となれば、素早く判断し、行動しなくてはなりません。状況を見て、いまはじっとすべき、と判断するのと、何も考えられずに突っ立っているのでは意味が全然違います。けれども、多くの人は大きな危機に直面した時に、止まってしまうのです。

 

安心の落とし穴

 「かたより」を意味するバイアスという言葉が、心理学で用いられています。心理バイアスは、あまりにも辛いことや、悲しいこと、不安なことに直面した際に、それらによって心が押しつぶされてしまうことを防ぐ防護壁の役割を果たしている側面もあります。あるいは、危険性のない些末な諸々に意識を向けないようにするような役割もあります。線路際の建物に住む人が電車の通過する騒音に邪魔されることなく眠ることができるのも、心理バイアスの働きの一種です。こうした日常生活を円滑にするための心理バイアスが、災害のような非日常な状況では行動を遅らせる原因となることがあるのです。
 全く新しい環境や状況に置かれたときに、挑戦意欲がふつふつと湧いてくるのか、元の場所に戻りたいと感じるかは人によって差があるところでしょうが、誰しもが少なからず不安を抱くものです。不安とは落ち着かないもので、あまり心地よいものではありません。この不安に対する具体的な対応策を持っていない場合、不安を軽減させるために心理バイアスが機能しはじめます。
 例えば、いまこのコラムを読んでいる最中に、建物の外でバン!と大きな音がしたとします。あなたがどう行動するかはさておき、あなたの周りの人はどのような反応を示すでしょうか。様子を見に行く人がいるかもしれませんが、あまり気にも留めずにそのままでいる人もいることでしょう。この、そのままでいる人の中では今まさに心理バイアスが作動しているわけです。何か物事(イベント)が起きたとき、そのイベントは1つのボールが心の中に投げ入れられたような状態です。これが、隣の部屋から愛犬が吠える、というイベントが発生した場合、あなたは愛犬のことをよく知っていますから、それが散歩の催促であることに気付き、そろそろ散歩に連れ出すか、といった次の行動にすんなりとつながっていきます。この時の心に投げ入れられたボールは綺麗な球形だとしましょう。
 ところが、前述の外で突然発生した大きな音は、何が起きたのか、なぜ音が鳴ったのか、など、知らない要素が数多くあるイベントであって、心に投げ入れられたボールも、あちこちが欠けていびつな形をしています。そのため、なんともしっくり馴染みません。これが不安の原因となります。ここで心理バイアスが機能し、あなたの記憶からもっともらしいパーツを引っ張り出し、ボールの欠けた部分を埋めていきます。そこには、あなたがこれまでに建物の中で事故に遭遇したことがないという記憶や、以前聞いた自動車がバーストした時の音の記憶などがパズルのピースのように埋め込まれていき、欠けたボールを球形に整えていきます。その結果「確かに大きな音が聞こえたが、たぶん自動車がバーストしたかなんかだろうし、そもそもこの部屋の中にまで影響が及ぶことなどあるまいに」といった結論が即座に組み立てられ、不安が安心によって上書きされます。このようにして心理バイアスによって記憶や仮説で組み立てられた安心の材料のことを、心理学ではメンタルモデルと呼んでいます。

 メンタルモデルは、安心を生み出す元となるものですから、本人にとってはけだし正論です。しかし、あなたの持っている知識や経験によって組み立てられているメンタルモデルは、必ずしも正解ではないのです。地震ひとつ取り上げても、震源地や時刻、気象条件などによって千変万化し、想定外がまとわりついているのが災害です。よほどの幸運に恵まれない限り、災害に際して、メンタルモデルは誤った安心を生み出します。その誤った安心のためにほっと一息ついた瞬間、それが悲惨な結果につながる、立ち遅れとなっているのです。

 

危険スイッチ

 メンタルモデルが生まれる事自体を止めることはおそらく大変に困難でしょうし、そもそもメンタルモデルがなくなってしまうと、あらゆることが気になってしまい、普段の生活が落ち着かなくなってしまいます。そこで、災害に備えて、危険スイッチを用意しておきたいものです。危険スイッチとは、筆者が勝手に名付けた用語ですが、不安を感じたら、あるいは、不安を感じるような場面に遭遇したら、その不安を危険に置き換えて解釈する思考法です。

 例えば、豪雨が発生し、夜半に帰宅したら家の前の道路が冠水し、泥水が流れていたとします。不安を感じたとしても、早速「毎日通っている道だし、縁石の様子からすれば泥水は、深さは10センチもないだろう、それに今日は雨に備えてレインブーツを履いてきたんだから、大丈夫」といった具合にメンタルモデルが構築されます。さて、ここで読者の皆さんにクイズです。手元にメモと書くものがあれば、メモに少し横長に「=」平行線を引いてください。この平行線はあなたのご自宅の前の道路です。よく思い出して、ここにマンホールを書き込んでみてください。おおよその方が覚えてはいないのではないでしょうか。筆者も覚えていません。覚えていないから、メンタルモデルにもマンホールの話は出てきません。泥水の川を前にしてメンタルモデルが揃ってしまい、蓋の外れたマンホールが泥水の下で待ち構えていることもしらずに、レインブーツを踏み出してしまえば、待っているのは最悪の結果です。
 この時に、不安を危険に置き換えていれば、結果は違ったことになっていたかもしれません。濁流は底が見えず危ないかもしれないから、と適当な棒を見つけてきて進む先に穴があいてないか探りながら進むとか、迂回するとか、マンホールに落っこちずに帰宅する選択肢は無いわけではないのです。不安を裏返せば安心ですが、危険を返せば安全が出てきます。災害対応における絶対的なルールは自分自身の安全を最優先にすることでした。危険を考えることで、安全が得られることもあるわけです。

 

死因を考える

 危険を考えるといっても、漠然と構えたところで何かが浮かぶというものでもありません。そこで、頭の体操のような防災訓練があります。それが、死因を考えるというものです。いま、この瞬間に地震(他の災害でも構いません)が発生し、5分後にあなたが死んだとします。その原因は何なのでしょうか。それを考えてみてください。

 風が吹けば桶屋が儲かる、という話があります。これだって、ただ風が吹けば桶屋が儲かるのではなく、風が吹くと砂塵が舞い、それが目に入って失明する人が出る。昔、全盲の仕事の1つに三味線弾きがありましたから、三味線のニーズが高まり、云々という長い因果関係が風と桶屋の間には挟まっています。
 同様に、災害が起きれば人の命が失われることは誰もが知っているところです。しかし、地震はあくまで地面が大きく揺れる現象であって、揺れただけで人が死ぬことはありません。これはあくまで相関関係であって、因果関係ではないのです。例えば、地震がおきる>固定していなかった家具が倒れてくる>下敷きになる>死ぬ、なんていう因果関係は分かり易いパターンでしょう。地震をはじめ多くの災害は止めることはできません。しかし、災害と最悪の結末である死との間には様々な因果の連鎖が連なっています。この因果を紐解いた時に、断ち切れる部分が必ずあります。そして、そこに防災のヒントがあります。
 この死因を考えるという思考ゲーム、慣れてくると、様々な危険が見えてくるようになります。災害とは想像するだけで不安なものです。実際に発生しても様々な不安がおしよせてきます。そうした不安に対峙して心がメンタルモデルを組み立ててしまう前に、さらには、安心しきってしまう事によって立ち遅れが生じる前に、しっかりと危険を把握できるようになっていれば、災害時の安全にもぐっと近寄れることでしょう。まずはひとつ、死因について考えてみませんか。

 

 


国士舘大学 防災・救急救助総合研究所 嘱託研究員     
公益社団法人 東京都理学療法士協会 スポーツ局 外部委員 
佐伯 潤   

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