35 万能ナイフは万能なのか

2023年 12月01日

安全という観点で防災グッズを再確認

 これまでのコラムでも、防災グッズの基本は「まずは使ってみること」であるとご案内してきました。普段使い慣れていないものが、災害時にうまく使えるわけがない、というのが、その根底にあります。電池で駆動するアイテムなどは、購入時におまけでついてきた、どこで作られたかもよくわからないブランドの電池を入れっぱなしにしておくと、いつの間にか液漏れを起こして、電池ばかりかグッズそのものが使えなくなってしまっている、なんてこともあり得ます。使い方がよくわからない防災グッズは持っていてもかさばるばかりで、役に立ちません。緊急事態とはいえ、皆さんにできることは普段の生活の延長上にあることだけで、地震の発生と共にスーパーパワーが身に付くことはないのです。
 もうひとつ、第1話から機会のあるたびにご案内している通り、防災の大前提は、自分の安全を最優先することです。人を助ける、人のために何かをする、といった気持ちも大切ですが、まずは自分の安全が確保できなければ、何も始まりません。自分が負傷者になって誰かの世話になるばかりです。
 バールやハンマーといったいかつい工具の使い方や、あるいは、ロープを使って高所から降下する方法など、専門的なスキルの教習に共通しているのは、まず、安全確保について学習します。比較的身近な技術として、救命講習などで知られる人工心肺蘇生やAEDの使用法であっても、最初にすることは周囲の安全の確認であるはずです。安全を無視すれば、自分がケガをしたり、命を落としてしまったり、といったリスクが高くなります。

 冷蔵庫に放置されていた食品を発見したときに、それがパックされたままの食品であれば、賞味/消費期限を確認します。保存容器に入ったものであれば、状態を観察したり、匂いを嗅いでみたりします。これらもまた、あかん食べ物を口にすることで、トイレから出て来られなくなる状況を回避するための安全確認であると言えます。
 あるいは、道路を渡る際には左右をしっかり確認するように、私たちが日常的に行っている行為には、安全確認が刷り込まれています。そして、慌てていて安全確認を忘れた時に、すかさず災難はおそいかかってくるものです。読者の皆さんが今こうしてコラムを読んでいられるということは、たいがいのことについて意識的か無意識かは別として安全を確認して生き延びてきたということでもあるわけです。
 安全確認とは、何も異常がないことを確認する行為です。間違い探しというゲームがあったり、人の失敗ばかりやたらと目につくのとは真逆で、正常を確認するのは、地味で面白味に欠ける行為です。故に、安全確認の動作が身に着くまでは、よほど意識的に取り組まないと、すぐに安全確認を端折ってしまいがちです。初心者に事故が多いのも、そのためかもしれません。痛い目を見ることで、己の失敗経験から、学ぶこともありますが、失敗には、取り返しのつかないケガを負ってしまい、そのセカンドチャンスが与えられないこともあります。災害時の失敗には、そのような失敗が少なくないかもしれません。
 無意識に安全確認ができる、あるいは、安全のための行動がとれるほどに慣れ親しんだアイテムこそが、災害時に役に立つ防災グッズであると仮定し、そのような観点で防災グッズを再点検してみると、案外と使えないアイテムが含まれていることがあります。例えば、防災グッズの定番のひとつ、万能ナイフが、それです。

 

考えてみると案外危ない万能ナイフ

 皆さんは普段の生活でナイフを使っていますか。料理をされる方であれば、包丁はよく使い慣れたアイテムと言えるでしょう。それ以外ではどうでしょうか。買ってきた洋服のタグを切り取るのにナイフを使いますか。思ったよりも堅かったポテチの袋を開ける場合はどうでしょうか。あんまりナイフって使ってはいないのではないでしょうか。

 それなのに、防災グッズには当たり前のように万能ナイフが入っています。あれはいったい何を切るために用意されているのでしょうか。筆者にも謎です。使い慣れていないであろうナイフが防災グッズに含まれている、これは皆さんの指先を血まみれにしようとするブービートラップな予感しかしません。
 包丁を使い慣れているという方も、包丁の切り方を考えてみてください。かつらむきのような職人芸でなくても、リンゴの皮むきなど、切る材料を手にもって刃を手前(内側)に動かすケースは意外と少なくて、たいていは、まな板の上に載せた食材を上から切っていく動作が殆どではないでしょうか。つまり、包丁というナイフの扱いには慣れていても、あくまで静置した対象物を上から切るという動作が専らであって、それ以外の用途にナイフを使うということには不慣れかもしれません。
 また、万能ナイフはフォールディングナイフといって、刃の部分が回転して収納される構造になっています。これはこれで便利なのですが、強度に不安のある物も少なくありません。変な使い方をして刃が曲がってしまい、無理に収納として力を入れた瞬間、ざっくり、って想像するだけで痛いです。しかも、筆者の個人的な感想としては、防災グッズについてくる万能ナイフは切れ味が良いとは言えません。切れない刃物、これまた厄介な存在です。
 アウトドアを愛好される方や、仕事で刃物を扱う方が、防災グッズで万能ナイフが必要だと思ったら、おそらくお気に入りのブランドの物を用意されるでしょう。使い勝手もわかっているし、なによりナイフの使用経験があるからこそ、その必要性も理解して備えるわけです。経験があるなら、安全面もそこまで心配する必要はないでしょう。

 

刃物の王道はハサミ

 同じ刃物であっても、ハサミはどうでしょうか。先ほどの例に挙げた、洋服のタグ切りや、ポテチの開封でも、ハサミを使うことは多いのではないでしょうか。ハサミは幼稚園で使い方を習う道具ですから、誰しもがこの上なく使い慣れたアイテムの1つと言って過言ではないでしょう。ワークデスクの文具にも、カッターナイフが無かったとしても、ハサミが無いということはないのではないでしょうか。

 それなのに、防災グッズのセット商品には、万能ナイフやカッターナイフが入っていても、ハサミが入っているのは少ないように感じます。たまに入っていても、何に使うかよくわからないちっさいハサミだったりします。ここはひとつ、防災グッズの定番としてハサミを再考してみてもよいのではないでしょうか。
 まず、防災グッズとして使い勝手が良いと思われるのが、キッチンバサミです。大振りで色々なものを切ることができますし、食材によってはまな板を汚さずにカットができます。刃が分離できるタイプだと、洗浄も用意で衛生的です。
 もう一つ、おすすめなのが、メディカルシザーです。これは救急救命の現場や、戦場医療で用いられるハサミで、全体的に湾曲していて、下側の刃の先端部が半円形になっているのが特徴です。これはケガの手当を行うさいに、シャツの袖やズボンなどを切り開く際に、間違って肌に突き刺してしまわないための工夫です。先端が尖っていないという点で、安全性の高いハサミであると言えるでしょう。また、布を切り開きやすいように、片方の刃にすべり止めのノコギリ状の加工がしてあり、キッチンバサミに負けず劣らずよく切れます。
 ハサミの仲間ということで、もうひとつ備えておきたいのは、爪切りです。ハサミがまだ高価であった江戸時代、江戸っ子は爪の手入れを小刀で行っていたようですが、コンビニでも爪切りが手に入る現代にわざわざ血まみれを覚悟してナイフで爪を切らなくても良いでしょう。爪が少しでも伸びてくると落ち着かない筆者にとって爪切りは必携です。

 

使い慣れたもの、が防災グッズの前提

 今回は防災グッズの中でも特に刃物にフォーカスしてご案内してまいりました。あらゆる道具は、それが無いと出来ないことや、実現が困難なことを可能にしてくれる便利な物です。しかし、ナイフに限らず、道具にはその便利さの裏に、誤用による事故という危険をはらんでいるのもまた事実です。
 そして、その失敗をリカバリーするためには、出来事の軽重に応じて、絆創膏や包帯といった医療品、119番通報のようなサービス、病院や薬局といった様々な物やコトが必要になってきます。あるいは、痛みが引き、傷が癒えるまでの間、行動が制限されることもあります。平時でも厄介ですが、そうした物やコトが手に入らない、もしくは、その行動の制限が、更なる重大な事態につながってしまう可能性を多くはらんでいるのが、災害時です。

 あらためて、防災の基本は、自分の安全を最優先にすることです。そのためには備えの基本である防災グッズのラインナップについても、安全の観点から、使い慣れたものを揃えるというアプローチをしてみるべきです。どう考えても必要なアイテムなのに、使い慣れていない。であるならば、使い慣れるよう努力してみましょう。それこそが、あるべき姿の防災訓練なのですから。

 

 

国士舘大学 防災・救急救助総合研究所 嘱託研究員     
公益社団法人 東京都理学療法士協会 スポーツ局 外部委員 
佐伯 潤 

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