31 避難訓練は防災の基本

2023年 10月01日

避難訓練のダラダラ

 筆者らが普段企業などの組織で実施している災害対応のための教育訓練には、応急手当や初期消火などよく知られた技術から、要救助者の捜索、搬送など専門的な内容まで、幅広いメニューが存在します。色々と存在する災害対応時の行動内容ですが、最も基本的な内容だと考えているのは、避難であり、そのために必要な教育訓練は避難訓練です。
 わが国では、災害対策基本法や消防法など各種法律で、国民の防災教育が義務付けられていて、その中でも代表的な防災教育が、避難訓練です。読者の皆さんも、学校や職場で避難訓練を受けたことは一度ならずあることでしょう。長らくこの避難訓練は、ダラダラしている、マンネリ化している、などの課題が指摘されていますが、皆さんの経験ではどうでしょうか。緊迫感のある避難訓練を受けたことがあるという経験をお持ちの方はいらっしゃるでしょうか。あるいは、避難訓練が難しかった、という感想はどうでしょうか。
 筆者はこの避難訓練の内容充実のための研究をしています。研究をしていて分かってきたことの1つにパーソナルスペースの存在があります。パーソナルスペースは、またの名を、ポータブルテリトリーと言い、その名の通り、個人が確保したい自分だけのスペースを指します。これは無意識のうちに生じる概念です。例えば、十分に広さのある空間であるにもかかわらず、見ず知らずの他人と肩が触れ合うくらい近くに立っていれば、なんとなく落ち着かない感じがしたり、あるいは、エレベーターに赤の他人が4人乗り合わせた際に、それぞれがエレベーターの籠内の四隅に立って最大限他人との距離を確保しようとしたりするのが、パーソナルスペースに関連した現象であると言えます。
 パーソナルスペースの広さは、自分の視界内のほうが広くなり、自分からは見えない背後などは狭くなるといった具合に、自分のおかれた環境によって変化しますが、面積で言えばおおよそ1平方メートル程度となります。なお、群集安全の世界でも、1平方メートルはひとつの指標であり、1平方メートル以上の空間が確保されたとき、人は自分の意志で自由に移動速度や方向を決めることができ、また、歩調の遅い人を追い抜くことができるようになります。
 一方で、パーソナルスペースは、不安や目的意識の変化によって縮小することがあります。病院の待合室で身を寄せ合う親子などは、不安によってパーソナルスペースが縮小した典型例ですし、通勤ラッシュの駅構内では、誰しもが早く出勤したいという気持ちを持っているために、パーソナルスペースを確保することよりも、少しでも前に進もうという心理が強くなり、混雑状態が発生します。避難訓練では、災害が起きた想定とは言え、人を不安にさせるような実際の地震動があったわけでもありませんし、追い立てるような火災の煙の発生もありません。このような状況下では、無意識にパーソナルスペースを確保しようとする心理的働きが優先されてしまい、避難行動のはずが、普段の移動と変わらない雰囲気、移動時の密度が発生してしまいます。これが、避難訓練に緊張感が生まれない最大の原因ではないかと筆者は考えているわけです。

 

避難誘導の難しさ

 そうはいっても、避難訓練で、避難経路を歩いてみるというのは一定の意味があります。平時にできないことは有事にもできない、とは、これまでのコラムでもご案内してきたところですが、平時に移動したことのない経路は、緊急の状況下ではそもそも選択肢として思い浮かばないということが、これまでの群集研究で明らかになっています。よって、迅速かつ安全な避難行動には、まず、避難経路を経験しておく、ということが非常に重要なのです。
 次に重要なのは、避難する人たちの安全を確保する避難誘導の技術です。消防法は、一定の規模、人数の事業所には自衛消防組織の設置を求めていますが、自衛消防組織の主要な任務の1つにも避難誘導は含まれます。では、避難誘導とは、具体的にどのようなことをすれば良いのでしょうか。
 まずは、安全確保の観点から、群集事故回避のための誘導が挙げられます。前述のとおり、緊急事態によってパーソナルスペースが極端に縮小された状況では、普段の避難訓練では想像できないような危険が発生します。朝の通勤ラッシュで、大勢の人が階段を昇り降りしている中で、誰かが慌てて前の人を押しのけようとしたら、転倒者や将棋倒しが発生することは容易に想像できるところでしょう。
 しかし、通勤ラッシュのような状態が、自分が普段仕事をしている社内で発生するとなると、急に未知の領域となります。避難訓練であっても、パーソナルスペースが存在し、余裕をもって移動をできているわけですから、避難階段で大渋滞が発生することはなかなかに想像が難しいのです。群集事故の危険性については、第10話で既にご案内しました。その時には、袋小路現象の発生により、圧死の危険性が生じることについて述べたわけですが、今回は屋内での群集事故のリスクから、避難誘導について考えてみたいと思います。

 

扉の開きの向きで避難経路が決まる

 引き戸は一旦脇に置き、エントランスなど一部の設置場所を除けば、扉は一方向に回動して開きます。押して開けるか、引いて開けるか、いずれかの選択肢となります。一般的に引き開きの扉は、60センチの空間がないと開けないとされています。狭い通路の奥に設置された扉の場合には、1メートルの空間がないと開きません。しかし、後ろからもぞくぞくと避難者がついてきている避難の状況下では(密集していると、ほんの数人分後ろにいるだけで、先頭の状況が見えなくなります)、扉に接近して「あ、この扉は引き開きだ」と気づいた時には、後続が接近し、前進し続けようとするために、扉を開くだけの空間が確保できない状況になってしまいます。こうなってしまうと、あとは最悪の事態までのカウントダウンが始まるばかりです。つまり、袋小路状態での圧死事故の発生です。
 消防法や建築基準法の規定により、建物から外に出るための扉は、外に向かって開く構造となっています。また、避難階段への出入口や、防火シャッターの脇に設けられたくぐり戸など、屋内の扉も、避難経路に沿って押し開きになるように設置されています。言うなれば、引かないと開かない扉がある場合には、避難経路ではない、という判断ができることもあるわけです。
 しかし、ここには大きな落とし穴が存在します。例えば建物と建物を結ぶ渡り廊下などが、避難経路となっている場合、それぞれの建物から見て、渡り廊下は建物の外ということになります。そのため、双方の建物のどちらもが、渡り廊下に向かって押して開く扉が設置されることが一般的なのです。これでは、渡り廊下に進入する際には押し開きですが、渡り廊下から次の建物へ移動する場合には、引き開きの扉になってしまいます。どうしてもこのような経路選択が必要な場合には、避難誘導役の出番となります。避難者を誘導する役割とは別に、先行する別動隊の人員が、扉を開けておくといった工夫をすることで、最悪の事態の発生は回避できるようになります。

 こうした避難誘導の工夫は、建物の構造や立地条件、想定される被災状況によって、なすべきことが多様に変化します。そのため、本コラムはもちろんのこと、一冊の教科書にまとめるというのも容易なことではありません。だからこそ、避難誘導役は、避難訓練で実際に避難経路を移動する際にそのような着眼点をもって、避難経路が安全か、群集事故の発生リスクはないか、といったことを確認していく必要があります。避難訓練は、避難経路をなぞるだけでなく、避難誘導役にとって経路確認の貴重な機会でもあるわけです。

 

避難時の恐怖を体験する、ボトルネック・ベルト訓練

 筆者が考案した訓練資材にボトルネック・ベルトというものがあり、これを用いた避難誘導訓練をボトルネック・ベルト訓練と呼んでいます。ボトルネック・ベルトは幾何学形をしたロープです。参加者は、保育園等で園児が散開しないように用いられるお散歩紐の要領で、ボトルネック・ベルトの指定された場所を握ります。これにより、参加者のパーソナルスペースが自動的に制限され、1平方メートルあたり3.5人という、群集が徒歩移動するのにほぼ最低限の人口密度が再現されます。(1平方メートルあたり4人を超えると、群集移動は停止、あるいは停止に近い移動速度まで低下するとされています)

 このボトルネック・ベルトを持って移動することによって、実際に災害が発生し、群集がかたまって避難する時の状況を疑似的に体験することが可能になります。扉や、階段の踊り場など、通路幅員が狭くなる地点では窮屈さを体験したり、階段の昇降では間隔が狭いために足元の段差がよく見えず恐怖を感じたりします。こうした体験を避難誘導役が得ることにより、自分たちがいる建物の中を群集が避難する際に、どのような場所が危険で、移動速度をあえて遅くしたり、20人程度のグループに分けて移動させたり、といった具体的な避難誘導戦術を学習することが可能になります。
 ボトルネック・ベルト訓練に限らず、災害対応の教育訓練は、実際の災害想定に近い状況で経験することで、多くの事を学ぶことができる場合があります。そして、それが意味のある備えにつながっていくわけです。あなたは、自分の職場の避難経路にどのような危険が潜んでいるか、把握しているでしょうか。

 

 

 

国士舘大学 防災・救急救助総合研究所 嘱託研究員     
公益社団法人 東京都理学療法士協会 スポーツ局 外部委員 
佐伯 潤   

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